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ペンキ事始(その1)【日本古来の塗料とペンキ】

日本には漆塗と柿渋塗があり、これら日本古来の樹脂塗料は現在でも使われています。

日本には漆塗(縄文前期約5500年前)と柿渋塗(平安末期)があり、これら日本古来の樹脂塗料は現在でも使われています。 西洋から入って来たペンキとの違いを強いてあげれば、前者は伝統文化の領域に入り、後者は今なお開発を続け、多種多様な用途に新しい商品を生み出していることです。

漆(うるし)

赤色漆塗櫛赤色漆塗櫛(福井県鳥浜貝塚遺跡)縄文時代前期(6000-5000年前)の漆塗りの作品です。漆が如何に経年変化に強い樹脂であるかの証明です。
現在は、建築や家具分野で漆を使用するにはその塗装工程の多さからコスト的に合わずほとんど使われていません。
幸い日本には漆の代用品としてナッツでおなじみのカシュー(cashew)の実から抽出した漆系塗料があります。 色数も豊富で室内家具を漆調に仕上げたい場合に使用されています。(塗料専門店で購入できます。)

柿渋(かきしぶ)

黒塀はこの柿渋に縄の灰を混ぜて溶いた昔の塗料柿渋は現代で言う防虫防腐塗料のようなもので木材などに塗ってその素材の寿命を延ばす目的で使われてきました。 浮世絵に描かれている黒塀はこの柿渋に縄の灰を混ぜて溶いた昔の塗料を塗装したものです。 最近では新潟県村上市のように市を挙げて昔ながらの黒塀を市民の力で復活させようというプロジェクトを立ち上げるところも出てきました。
 柿渋の歴史は古いようですが、漆と違って素材そのものが自然へ回帰してしまうのではっきりしません。
柿渋は臭いが最大の難点でしたが、新しい技術によって純粋の柿渋タンニンを取り出すことに成功し、臭いのしない染料・塗料用柿渋も販売されています。

西洋のペンキ

帆にペンキを塗る歴史はノルウェーのバイキングの時代ここで言う『ペンキ』は大航海時代に、主に帆船の木材保護や水密性の維持のために使用されたオランダ語(pek)を語源としたものを指します。 現在でも商品として売られているスパーワニス(Spar vanish)はSpar=”マスト周りの艤装品”に塗る天然樹液を原料としたワニスのことです。 また、帆船の開口部を荒天時に塞ぐキャンバスは布に塗料を塗りこんだ物です。 帆にペンキを塗る歴史はノルウェーのバイキングの時代にはすで行われていたのは確かなようです。(バイキング時代の帆船 右図参照)
 いずれにせよ、現在使われている塗料の誕生はノアの箱舟にそれらしきものを塗ったという記述からして船とは切っても切れない関係にありそうです。

ペンキ事始(その2)日本で最初にペンキ塗装が行われた長崎出島と蓬(よもぎ)色

日本で最初にペンキが使われたのは、鎖国政策の下で唯一オランダにだけ認められていた東インド会社(VOC)の日本支店に相当する長崎の出島にあった商館と言われています。 このとき、商館に塗られたペンキの色は「よもぎ色」と言われております。商館に塗るためにわざわざオランダから持ち込んだものではなく、おそらく当時のオランダ船の補修塗料として積まれていたペンキが流用されたものと推測できます。 そのことを裏付けるように当時のオランダ船籍の船体に塗られていた黒色も蓬色と一緒に商館の外壁に塗られているのが絵から確認できます。それでは船体に塗られていた赤色はなぜ塗られていないかという疑問が残ります。ウー・・・?!
赤系のペンキは当時から高価だったのかなーー・・・・・・(川原慶賀の絵を参照)

日本初の塗装:初めてペンキ(塗料)が塗られた出島の商館「よもぎ色」

ペンキ事始(その3)【日本の塗装業】

日本に於ける塗装業は明治以降の約150年の間に現在の形が作られてきました。 この間に塗装業の呼称も色々と変遷し、実に様々な言い方が用いられてきました。一概に論ずることはできませんが、ペンキ屋はオランダ語が起源といわれ最も古くから使われていた呼称で、その後、塗装屋⇒塗装店⇒塗装会社の順に数人の職人組織から法人格を持つ株式会社まであります。 屋号や社名にはXX塗装、XX塗装店、XX美装、XX建装、XX技建、XXペイントなどがあります。

塗装業と開国

(ペンキ屋(塗装請負業)をいつ誰が始めたのか?)

1999年発刊の『日本近代建築塗装史』や塗装関連図書には、日本におけるペンキ塗装の始まりを「日米和親条約が締結された横浜談判所(応接所)外壁のペンキ塗りが本邦初である」と紹介されています。 しかしながら、この定説を裏付ける公的資料は発見されていません。

eペイントは塗装業にとって、ペリー来航に次ぐ第二の新たな仕組みを提供するにあたり、「ペンキ屋(塗装請負業)をいつ誰が始めたのか?」について、現在、横浜で塗装業を営んでいる(株)櫻井に伝わる『本邦ペンキ塗業由来記』と当時の絵図やペリー横浜上陸当日のぺりーのメモと日記『The notes and journals of Commodore Perry.』をもとに、日米両国から見た当時の状況を検証し、最初のペンキ職人がいつどこの建物のどの部位を塗ったかを推測してみました。 どうも、ペリー来航直後に日本のペンキ屋(塗装請負業)が始まったのは事実のようですが、誰が始めたかとなると諸説あるようです。 ただし、国内最初のペンキとなると長崎出島の商館にオランダ商船のクルーであった中国人が塗ったヨモギ色のペンキが最初ではないでしょうか?

『本邦ペンキ塗業由来記』の「ペンキ塗りの起源」より原文の一節を記載

(町田辰五郎五十回忌に配布された小冊子= ㈱櫻井所蔵)

ペリーと黒船:塗装の歴史

嘉永7年(1854年)寅正月、徳川幕府は「アメリカ」使節を接見する為に、武蔵神奈川宿海岸に交易談判所を急設することになった。

この建物は木造平屋建で間口八間奥行四間中央を談判会議室とし、両脇を日米両国の正史以下諸役人及び警護者の休憩所とされたものである。 然るに普請奉行は本建築に輪奐の美を添えるために内外共に新しきペンキ塗りを試みようとした。 これ洵に当時においては空前の発案であり塗工界の驚異であった。 そこで彼は江戸中の塗工を彼是物色した後、その頃京橋新肴町の村田安房守邸に出入りしていた渋塗り職町田辰五郎(現櫻井の祖父)にこの工事の塗工一式を命ずることになった。

ウィリアムス:塗装の歴史

前述の如き有様であるから、この請負を余儀なくされた辰五郎の苦衷は、蓋し思い半ばに過ぐるものがあろう。
この頃わが国では「ペンキ」の名称さえ知れなかった。時代であるから、辰五郎は種々研究熟慮の結果、友人で江戸新橋南金六町にいた唐紙製造経師入江作兵衛氏に色胡粉の調合法を依頼しこの年正月二十日塗工事に着手し下塗り上塗りをなし更に桐油及び荏油にて艶出しを試みた。 塗工はかくして最初の試練を終ったが、この調合並びに施工法が余りに拙劣幼稚であったので、辰五郎は通訳コスカドルを利用してコンテエ(注1)氏の同情を買いその紹介により密かに横浜村本牧鼻に停泊せる、米船アンダリア号(注2)に赴き「ペンキ」及び油を得、通訳ウィリアムス(注3)の支持を以って、外人職工より伝授を受け、二月六日漸く所命の塗工事を完了した。
近代開国の歴史に於いて特筆大書されて居る、米国使節「ペリル」対幕府の顕官林大学頭の応接所であった交易談判所の建設が計らずも辰五郎発奮の動機となり、本邦「ペンキ」の濫觴となったことは、一種の光彩ある奇縁とせねばならぬ。

(注記)

注1.コンテエ=Lieutenant Contee(ペリーの側近)
注2.アンダリア号=ヴァンダリア号=Vandalia号(艦隊の中で最小の船770トン、船員190人、1848年建造)
注3.ウィリアムス=S.Wells Williams(ペリー遠征隊の主任通訳)

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