1999年発刊の『日本近代建築塗装史』や塗装関連図書には、日本におけるペンキ塗装の始まりを「日米和親条約が締結された横浜談判所(応接所)外壁のペンキ塗りが本邦初である」と紹介されています。 しかしながら、この定説を裏付ける公的資料は発見されていません。 eペイントは塗装業にとって、ペリー来航に次ぐ第二の新たな仕組みを提供するにあたり、「ペンキ屋(塗装請負業)をいつ誰が始めたのか?」について、現在 、横浜で塗装業を営んでいる(株)櫻井(eペイント出店)に伝わる『本邦ペンキ塗業由来記』と当時の絵図やペリー横浜上陸当日のぺりーのメモと日記『The notes and journals of Commodore Perry.』をもとに、日米両国から見た当時の状況を検証し、最初のペンキ職人がいつどこの建物のどの部位を塗ったかを推測してみました。 どうも、ペリー来航直後に日本のペンキ屋(塗装請負業)が始まったのは事実のようです。
嘉永7年(1854年)寅正月、徳川幕府は「アメリカ」使節を接見する為に、武蔵神奈川宿海岸に交易談判所を急設することになった。
この建物は木造平屋建で間口八間奥行四間中央を談判会議室とし、両脇を日米両国の正史以下諸役人及び警護者の休憩所とされたものである。 然るに普請奉行は本建築に輪奐の美を添えるために内外共に新しきペンキ塗りを試みようとした。 これ洵に当時においては空前の発案であり塗工界の驚異であった。 そこで彼は江戸中の塗工を彼是物色した後、その頃京橋新肴町の村田安房守邸に出入りしていた渋塗り職町田辰五郎(現櫻井の祖父)にこの工事の塗工一式を命ずることになった。
前述の如き有様であるから、この請負を余儀なくされた辰五郎の苦衷は、蓋し思い半ばに過ぐるものがあろう。
この頃わが国では「ペンキ」の名称さえ知れなかった。時代であるから、辰五郎は種々研究熟慮の結果、友人で江戸新橋南金六町にいた唐紙製造経師入江作兵衛氏に色胡粉の調合法を依頼しこの年正月二十日塗工事に着手し下塗り上塗りをなし更に桐油及び荏油にて艶出しを試みた。 塗工はかくして最初の試練を終ったが、この調合並びに施工法が余りに拙劣幼稚であったので、辰五郎は通訳コスカドルを利用してコンテエ(注1)氏の同情を買いその紹介により密かに横浜村本牧鼻に停泊せる、米船アンダリア号(注2)に赴き「ペンキ」及び油を得、通訳ウィリアムス(注3)の支持を以って、外人職工より伝授を受け、二月六日漸く所命の塗工事を完了した。
近代開国の歴史に於いて特筆大書されて居る、米国使節「ペリル」対幕府の顕官林大学頭の応接所であった交易談判所の建設が計らずも辰五郎発奮の動機となり、本邦「ペンキ」の濫觴となったことは、一種の光彩ある奇縁とせねばならぬ。
注1.コンテエ=Lieutenant Contee(ペリーの側近)
注2.アンダリア号=ヴァンダリア号=Vandalia号(艦隊の中で最小の船770トン、船員190人、1848年建造)
注3.ウィリアムス=S. Wells Williams(ペリー遠征隊の主任通訳)
he Commodore having been escorted to the door of the house of reception, entered with his suite. The building showed marks of hasty erection the timbers and boards of pine wood were numbered, as if they had been fashioned previously and brought to the spot all ready to be put together. The first portion of the structure entered was a kind of tent, principally constructed of painted canvas, upon which in various places the imperial arms were painted. Its area inclosed a space of nearly forty feet square. Beyond this entrance hall was an inner apartment to which a carpeted path led. The floor of the outer room was generally covered with white cloth, but through its center passed a slip of red-colored carpet, which showed the direction to the interior chamber. This latter was entirely carpeted with red cloth, and was the state apartment of the building where the reception was to take place. Its floor was somewhat raised, like a dais, above the general level, and was handsomely adorned for the occasion. Violet-colored hangings of silk and fine cotton, with the imperial coat of arms embroidered in white, hung from the walls which inclosed the inner room, on three sides, while the front was left open to the antechamber or outer room.
ペリーの一行は点線の経路で所定の場所へ至ったようです。
(余談ですが日米双方の絵図を比べるとハイネの絵が左右逆ではないとつじつまが合わなくなります。このように左右逆ではないかと思われる図がペリー上陸の図(図−4)でも見受けられます。 上陸の時間と影の方向、金海奇観応接図巻(図−3)を参考にすると玉楠(注1)が左側にあるものが正しいと思われます。)

『The notes and journals of Commodore Perry』にはペリー一行が応接所内へ入って行くときの建物の印象の記述があります。
内容は以下の邦訳を。
『応接所の建物は急設で松の柱や板には番号が付けてあり、あたかも一度組み付けられた物をばらして再築したように見える。 入口の構造はテントみたいなもので、主に塗装をしたキャンバスで作られていて、キャンバスのいたるところに紋章が塗装されています。この場所の大きさはおおよそ40フィートスクウェアー(144u)です。・・・・・・・・・・・・・』


幕府は、前年にペリーが浦賀に停泊した経緯から、今回も浦賀で交渉することを前提に段取りをしていたようです。 ペリーが浦賀ではなく、より江戸に近い横浜村沖へ錨地を変えたものですから応接所は浦賀から急遽横浜村へ移築されました。 この時、10日前後の工期で大事な応接所を建設しなければならなくなった応接所建設担当の普請奉行の悩みは想像がつきます。
この普請奉行は前年に浦賀奉行の一員として黒船に招かれたときに天幕で屋根を作っている姿(ハイネの石版画の中に当時の天幕に合衆国の州紋章』の絵柄が描かれたキャンバスを参照 図−5)を見る機会があり、時間的余裕のない応接所の建設に利用しようと思ったのではないかと考えられます。 天幕なので漆塗り職ではなく渋塗り職の町田辰五郎に白羽の矢が当たり、辰五郎は唐紙製造経師が紋の絵柄や調色に長けているので、教えを請うたのではないかと推測されます。
また、『The notes and journals of Commodore Perry』に「入口の構造はテントみたいなもので・・・・・・・」で記述されていることと、ペリー随行画家ハイネ(現在の同行カメラマン)が描いた応接所の絵を見ても紺色に白抜きで紋章(徳川の葵の紋章にも浦賀奉行所・伊沢美作守の紋章にも見える)が描かれています。
さらに、応接所の屋根(図−6)を見ると明らかに骨組みの上にキャンバスで覆った仮設屋根のように見えます。
以上のことから、町田辰五郎が日本で最初にペンキを調合し、それを綿布に塗布してキャンバスを作り、仮設とはいえそのキャンバスを屋根と外周りに使ったのであれば、町田辰五郎は日本で最初にペンキを調合した人であり、最初にキャンバスを作った人であり、最初にペンキを塗った人でもあるといえるのではないでしょうか!
以上、日米両国の資料をもとに、推測を交えて記述しました。